閉鎖病棟のなかまたち

閉鎖病棟には様々な症状の子がいました。

わたしが最初に入院したのは18歳以下の女子のみが入院する病棟です。

 

三ヶ月間は個室に軟禁状態で独りぼっちでした。

母はわたしから解放された安堵感と、可哀想だと思う気持ちがあり複雑な心境の中なかなか来る事ができなかったようです。遠かったですし。

 

退屈と寂しさが限界を迎えた頃、新しい患者さんに押し出される形でしたがなんとか晴れて大部屋へ移動となりました。

 

ガリガリに痩せた子や

髪がボサボサで臭う子、薬の副作用で目が開かない子や、ヨダレが止まらない子もいました。

可愛くて元気でなぜここにいるのだろうと思うような子もいました。

 

初めて団欒場所のホールに行くと、左腕に包帯をまいた年上らしい女の子に手を取られ、可哀想に可哀想にと傷を撫でられました。

ヤンキー風のルックスな子もいましたが、みんな優しかったです。

 

みんな自分の辛いことに向き合うのに精一杯で、他人を揉めてる余裕などないのです。

 

食後トイレに行くと、よく過食嘔吐の子が吐いているところに出くわしました。

 

幻覚を見て騒ぎ、危ないほど暴れて隔離室に入れられる子もたまにいました。

 

でもそんなことたいして気にならなかった。誰も話題にしなかった。

 

退院をゴールと信じ、医療保護を解いてもらうべく必死にいい子にした。

自分は正常だとアピールした。

言われるままに大量の薬を飲み込んだ。

 

異様な、異常な空間かもしれないけれど・・・わたしはそこで最後の方は入退院を繰り返しながらも2年暮らしました。

高校も病棟から通いました。

 

 

 

 

うつの気持ち

入院中の話が(精神的に)続けて書けないので退院後独り暮らし時代の話です。

 

念願の大学へ進学し、独り暮らしを始めたものの、病状は悪化し

薬の副作用で授業中座っていられなくなり、大学を中退しました。

その後は居酒屋で夜から朝までのバイトをして生きていました。

 

うつ病の独り暮らし・・・

 

 

わたしは双極性ではなく抑うつでしたので、常になにかに焦り、誰かの悪意を感じ、前向きになれる時期が滅多に訪れませんでした。

 

 

まず昼間外に出ることが出来ませんでした。

調子の良い時につい遊ぶ約束などしてしまうと、その日が近付くにつれ、どんどん気持ちが沈んでいきます。

約束したことを後悔して、でも断る勇気も出ない。当日までに元気になるかもしれない・・・

 

そして当日、玄関で靴を履いたまま何時間も動けない自分に心底絶望するのです。

 

こんな事が2、3回あると迷惑だからもう約束するのをやめようと考えます。

でも友達の約束を断り続けるのには限界がある。

その結果殆どの友達とだんだん距離をとり、自然にフェードアウトしていくようになりました。

 

わたしは時間に対して強迫観念のようなものがあり、それも一つの要因だったような気がします。

わたしのそれは、

一分でも遅れるなら行かない。

といった極端なものですので・・・。

 

 

友達は居らず、昼間は家に引きこもり、夜から朝まで働きに行く。

でも寂しいから、自分を甘やかしてくれる彼氏を作ったりもしました。

もちろん続きはしません。どうでも良くなって別れて悲しくもならない。

こんな生活で、うつの自分を大切に守っていたような気がします。

今更うつが治ったって、わたしにはもう何も無かったから。

周りの若者のようなキラキラした素敵な毎日を送る環境を、わたしは自ら捨ててしまっていたから。

抜け出すことすら恐怖でした。

朝が来ることが恐怖でした。

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

無理なく、人に迷惑を掛けないようにさえすれば、あなたの好きに生きていいんだよ。

やらなければいけないことはやる。

それが出来るようになるんだよ。びっくりだね。

 

 

 

 

 

 

 

儚き病名

 

主治医や病院が変わる度、病名もコロコロとかわりました。

 

適応障害抑うつ境界例解離性障害・・・など。

(最後は摂食障害でした)

 

だけど病名なんて何であっても、患者はただ与えられた薬を飲むだけなんですよね。

私の場合は知る必要無かったです。

病名を聞くと色々調べてしまって面倒くさいことになりますから。

知ったからこそ対処できる場合もあるんでしょうけどね。

 

病名がなんであれわたしが抱えていたのは

 

・生きづらさから来る希死念慮

・謎の焦燥感

・不眠、朝が怖い

 

でしょうか。

これに付随して自傷や過剰服薬、薬による物忘れや徘徊などがありました。

 

劣等感や生きづらさは今も改善されておらずわたしの一生の課題です。

 

 

 

 

入院した日

 

事前に渡された入院の手引きを参考に準備をしました。

 

未成年のみの閉鎖病棟であり、生活のルールはかなり厳しかったように思います。

 

 

持ち込み禁止のもの

・紐状のもの(パーカー紐、イヤホン等)

・尖っているもの

・お金

・洗剤類

・携帯電話  などなどなど・・・

 

 

荷物を持って手続きを済ませ病棟へ向かうと、看護師さんが腰にジャラジャラ付けた鍵のひとつで重いドアを開けました。

ドアの奥にはガラス張りのドアがありました。二重扉です。

後にこれはガラスでなくプラスチックだということが判明します。

 

 

病棟へ入ると患者さんに囲まれました。

年齢、彼氏の有無、身長、体重、胸の大きさまで質問攻めにあいました。

一見普通の子もたくさんいたし、明らかにおかしな子もいました。

 

看護師さんが止めに入り、わたしを病室へ連れていきます。

そこは監視カメラのついた個室でした。

介護用のようなベッド、透明の壁に囲まれた便器、小さなゴミ箱、椅子。

これだけしかない冷え冷えとした部屋です。

鍵をかけられ、ご飯も部屋で食べます。二日に一度のお風呂と、夜に公衆電話から母に連絡するとき以外は出る事はできません。

 

その日の母のことは憶えていません。

きっと泣くのを我慢していたことでしょう。

 

最初から大部屋のひともいるし、個室スタートでも長くて一ヶ月 で出るその個室で、わたしは三ヶ月暮らしました。

 

理由は未だにわかりません。

 

ただ長い長いだけの入院生活が始まりました。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

入院した日、ちょっとワクワクしたよね。

何も考えなくて済むと思ったよね。

ゆっくり休んで。

 

 

 

入院するまで

 

病気になってから精神科へ行くまでの何ヶ月間かは家で過ごしました。

 

その間に母はわたしと妹を連れて家を出てアパートに越していました。

 

あれほど望んだ引越しだったけれど、何故だかわたしの具合の悪さには拍車がかかってしまいました。

ので、記憶が曖昧で覚えていないことも沢山あると思います。たぶん・・・

 

あまり学校に行けず、手首を切り、隙あらば家出をしようとするわたしと阻止しようとする母との激闘の毎日でした。

 

当時 1時間半電車に乗って中学に通っていましたが、通学途中で居なくなるため

行けそうな日は母が車で送り迎えしてくれていました。

ある日の朝、叔母が来てドライブがてら一緒にいくと言いました。

制服を着て車に乗り、一時間程走ると

そのまま見たことのない大きな病院に入って行きました。

 

 大人しく待合室に座ったような気もすれば、ギャーギャー騒いだような気もします。とにかくわたしは騙されて精神科へ連行されたのです。

もちろん感謝していますよ!

 

診察室で手首をみせて、

うわぁ~入院する?

と言われ、激昂し帰宅しました。

 

もう行きたくないと思っていたのに、割とすぐにその日はやってきました。

 

何が引き金だったのかは本当に記憶が無いのですが、とにかくわたしは入院したいと思ったのです。

入院させてください。と母にお願いしたのです。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

あの時のわたしへ

 

あなたを抱きしめてあげたい。

 

 

 

 

 

 

 

手首を切るということ

 

わたしが初めてリストカットをしている方と関わりを持ったのは中学2年の頃

 

同じ部活の男の子の彼女でした。

遠距離恋愛で、直接会ったことはないのですが。

所謂メンヘラ女子で、手首を切った血文字で彼氏に手紙を送ったりしていましたよ。

 

で、何故かわたし

頼まれてメル友になったんですが、とても大変でしたし、衝撃でした。

 

衝撃を受けて、迷惑だと思ったし

しにたくてしているのなら無駄な行為だとまで思っていたのに、、

 

結果わたしも手首を切りました。

 

初めてのときのことは覚えていません。

ただ手首を切るという行為はその後10年間、わたしにとってとても大切な儀式となりました。

楽しい瞬間や気持ちを写真に残したいと思うように、

苦しい気持ち、悲しい気持ち、やりきれない気持ちを形にして残したのかもしれませんね。

正直どうして切ったのかよく分かりませんが・・・なんの解決にもならないけどそうやって、なんとか生き延びていたんです。

 

切らなくなって6年。

今は、もちろん後悔しています。

大後悔です。悔やみきれません。

わたしの両腕には二の腕から手首にかけてケロイド状態になった自傷痕がびっしり残っています。

首やお腹、太股にもあります。

 

温泉はほぼ諦めですがプールや海はラッシュガードでいけます。

 

夏も暑いけど慣れます。

でも働くことが大変なんです。

求人誌ではまず制服を確認します。

時給や内容などは二の次です。

半袖制服のところでは働けないのですから。

冬に入社して夏になったら半袖制服に切り替わってしまい辞めたこともあります。

着物の袖から傷痕が見えて1日でクビになった事もあります。

 

あって良いことなど一つもありません。

 

 

だからわたしは、出来ればよく考えてみて欲しいと思います。

きっと苦しいのは治るから、傷痕を残さないほうがいいです。

また生きづらくなって心が苦しくなって

しまうから。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

手首を切っていたわたしへ

 

あなたを責めたりしません。

生きるための行為だったのだから。

でもね、あの時切ったのがもう少し違う場所だったなら

未来のあなたはもっともっと生きやすいですよ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

病気のはじまり

 

初めて精神科に行ったのは15歳のとき。

でも病気になったのはいつだったのか。

 

よく、精神の病気は母子の関係が影響する。などと聞きます。

 

我が家は

わたしが物心ついたときから両親が不仲であったと思います。

理由のひとつに父親の怒鳴り癖がありました。

 

親切で、子ども思い、よく冗談を言って周りを笑わせるような父です。

でも時折 瞬間湯沸かし器のように怒鳴っては私と母を怖がらせました。

 

母親は身体が弱く、よく寝付いていました。

精神状態が良くなかったのか、片付けることが出来ず家の中には物が積み重ねられ

足の踏み場のない状態でした。

 

私が中学に上がるころ両親は離婚したのですが、

離婚後も同じ家に住んでいました。

夫婦関係は破綻して口もきかない・きけば怒鳴り合う。

1階と2階で家庭内別居状態でした。

正直言って、この頃からのことは書こうとすると動機がします。

あまり思い出せないのに涙が出て・・・

 

・父が憎かった

・私と妹を連れて家を出ない母も憎かった

・ある日締め出されたのをキッカケに家出を繰り返すようになった

・家に居場所がないから家出をするのに探し出し怒る母に憤る

 

こんな状態で中学一年の夏には家出少女となり果てていました。

 

 

この時のわたしが病気だったかどうかは解りません。

でも追い詰められていたことは確かです。

この頃泣いたこと、一つ一つが積み重なったのでしょうか。

(わたしの行動が母を追い詰め、その結果妹にも多大な迷惑をかけたこと

これはとても反省しています。)

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

15歳までのわたしへ

 

子どもって無力だから、親に守ってもらいたかったね。

大好きなお父さんお母さんを、大嫌いになるのはつらかったね。

自分が幸せになれれば、みんなみんな許せるからね。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・